読み切り短編集






 私は誰なのだろう、と男は思った。少なくとも俺はそう思った。最後の記憶はどこで途切れていただろうか。昨日? 今日? 明日? いや明日のはずが無い。男はまだ明日を生きてはいないのだから。誰も明日などまだ生きてはいない。じゃあ僕は今どこにいるのだろう?

 俺は胸のムカつきを押さえて体を起こす。ぬめりとした触感が掌を伝い、男は顔をしかめる。足場となる地面を触れるその手には何かの吐瀉物――違う、これは臓物だと思います。そう、僕の座っている地面は確かにぶちまけられた内臓と粉々に粉砕された甲殻生物の手足で成り立つ山に他ならなかったのだ。

 男はもう一度記憶をたどるが、思い出せなかった。何かと戦っていたこと、それが私に残された記憶だ。そうじゃないだろう。戦ってはいない、勝手に自分を英雄化するんじゃない。戦ってはいないだろう。
 そうかもしれない。僕は手助けをしていたんだ。何かの手助けを。私は戦うための手助けをしていたのだ。誰かのために。彼は曖昧から明敏になる記憶の断片にすがるように大きく息をした。途端に咳き込み肺に突き刺さるような痛みを俺は感じる。これって瘴気なんじゃないのか?

 瘴気?

 瘴気とは、Gが自分たちの生息範囲にばら撒く有害物質のひとつで、呼気によって生じる。糞や死骸とは異なり空気に混ざることでどこまでも広がるため、その撤去は極めて困難。一般歩兵がなかなかGと対等に戦うことが出来ない原因であり、作戦部の頭痛のための一つだ。

 G?

 G?

 そうか、僕はGと戦っていたのか。
 俺は一つの答えを導き出したが、同時にそれは彼をもう一つの疑問へと駆り立てた。では何故私はこのGの死骸に囲まれた中に座っているのだろう。死んだのか、生きているのか。俺は全てを投げ出して再び泥のように眠りに付いた。




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愛しのエリー

"Ellie My Love"

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「おはよう」

 男の二度目の目覚めは、思いのほか綺麗な声で始まった。誰の声かと彼が横を向けば、一人の女性がベッドから三歩ほど離れた机のそばに――彼はそのとき初めて自分が清潔なベッドに寝ているということを自覚したわけだが――立っていた。
 さっぱりとした端正な顔立ちに、軽くカールのかかった金髪。その風貌はただの町娘に見えなくもないが、羽織った白衣と首にかけた聴診器が彼女の職業を物語っていた。

「よく寝てたわね。でも、おかげで傷は全部癒えたみたい」

 俺はその声を聞いて自分の体を見下ろしてみる。なるほど、傷はもう無い。
 確かこの前にあの臓物まみれの中で目覚めたときは俺自身も内臓が飛び出るほどの怪我を負っていたはずだが、これは一体どういうことだ。いや、違うな。そうじゃない。俺の傷が寝起きに癒えるのは当然だ。何故なら――

「やっぱMAIDって治癒能力が桁外れなのね。実物見るのは初めてだから驚いたけど、まぁ医者としては羨ましいわね、なんとなく」

 ははは、と彼女は屈託無く笑った。それに釣られるように、私も思わず口元を綻ばす。
 彼女にとってそれは談笑の一区切りに過ぎなかっただろうが、私にとって彼女の言葉は彼女自身が感じるよりも大きな意味があったのだ。
 確かに人を“治す”医療を生業とする者にとって、MAIDの驚異的な治癒能力は圧倒されるものがある。自分が数年をかけて成し遂げてきたことを、僅か数時間程度で自ら終了させるのだから。

「それは分かりますよ、僕もこう見えて医者ですから」

 僕の言葉は予想外だったようで、彼女はちょっとの間ぽかんと口を開けていた。

「MAIDの全てが戦闘用、というわけではありません。私は治癒系の能力を買われて軍医に抜擢された医療用MAID、オ・ツヴァイ・ファートと言います……失礼ですが、貴女は?」

 彼女は彼――その言葉を信用するなら、ファート――の流暢な言葉に僅かにたじろいだものの、すぐにいつもどおりの笑顔に戻った。

「あたしはエリー。医者のいないド田舎の町で医者をやってる献身的な才女よ。ちなみに貴方を助けたのはもちろんあたし。だから、あたしにどんなに感謝してもしすぎってことはないと思うわ」

 竹を割ったらこんな子が生まれてくるのではないかと思うほどに真っ直ぐで嘘の無い言葉。
 それは何故か俺にはとても眩しく見えた。

「助けた? 俺を? 俺は確かGの死骸のド真中に放り出されていたはずだが――」

「そうよ? だから大変だったのよ。わざわざあんなもの被って貴方を背負ってきたんだから!」

 テーブルの上にあったコーヒーを啜りながら、エリーは部屋の片隅の釘に無造作に掛けられている黒く不恰好なマスクを指差し、もう一度笑った。


 その笑顔は、内心は不安だった  僕を   


温もりへと


エリーの笑顔が、


エリー      君は



「結局、軍はお迎えに来ないわね」

 エリーの声に、ファートは診療所の中を掃く箒の手を止めた。
 今日は天気もいい。気持ちのよい青空の元で窓を開け放ち掃除をしない手は無い。意外と几帳面なファートの提案だったのだが、実際に実行しているのもほとんどファート一人だった。エリーは掃除という人として当然の行動がひどく苦手らしい。

「俺を、か?」

「他にいないでしょう?」

 確かにな、と俺は苦笑した。
 エリーに助けてもらってからすぐに軍に電報を打ったのだが、「待機」の二文字が返ってきたっきりもう三ヶ月も音沙汰が無い。致し方ないため、俺はこの診療所で住み込みの助手をしている、というわけだ。
 居場所として、意外と人使いが荒い彼女の家とGがのさばる戦場とどちらがいいのか、俺には分からないが。

「しかしまぁ仕方のないことです。上層部にとってMAIDはあくまで一つの“兵器”ですから、もはや私は消耗品として消費しきったということでしょう。軍としても今さらお荷物を増やしたくはないでしょうしね」

「ははは、相変わらず冷静な分析ね」

 そうかな、という僕の返事を聞いてエリーがまた楽しそうに笑った。



どうしてだろうそれ  で胸が高鳴        るのは。


彼はその思いを宙に問うた。


答えは返ってくることは無く。



「どうしたの?」

 買い物袋を下げたエリーが、ふと足を止めた私を振り返る。
 秋口とはいえ夕刻はもうだいぶ冷える。彼女は袋に詰まった人参とじゃがいもと玉葱から作られるシチューを一刻も早く食べたいのかもしれない。

「あ、いや……今日は夕陽がとても綺麗だな、と思って」

 エリーは驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべた。
 事実、彼女は驚いていたし嬉しいとも感じていたのだ。自分とは異なる存在と思っていたMAIDが、当たり前のように美しい光景に感動し、それを自分に吐露してくれたということ。ファートとの距離がその一言で随分と縮まった気すらした。

「意外とセンチメンタルなのね?」

 エリーは茶化すように首をすくめてくすくすと笑う。
 俺はそれにちょっとばかり不満を覚えた。“意外と”って何だ、“意外と”って。心外な。彼の顔にはその言葉がありありと書かれていたようだ。彼女は「そんなに睨まないでよ、冗談なのに」とまたくすくすと笑う。
 今度はそれに釣られ私も思わず口を綻ばせてしまう。

「じゃあ、お詫びのしるし!」

 エリーは僕の手を握り、そのまま帰路へと足を運ぶ。ちょっと待て、お詫びって手を繋いでくれるだけかよ、と俺は頭を抱えたが、彼女にそんな言葉は通用しないに違いない。
 何より彼はその繋がれた手に確かに安らぎと温もりを感じており、それはお詫びと称するに相応しいだけの価値はあったと私は感じていた。
ははは、と笑う彼女が夕陽に照らされ美しい。



ああ、   エリー。


僕はやっぱり  戦場より     君の傍、


どこか


いつか


エリー、  君と――……



「えーと、これはどういう?」

 エリーの質問に、僕は思わず答えに詰まってしまう。と言っても、その原因を作り出してしまったのはもちろん僕自身だったのだが。
 簡単に言うと、僕はろくに後先のことも考えずに――いや、俺はよく考えたからこそ彼女の左手薬指に、安い指輪を押し込んだのだ。まぁその意味は常識ある人間なら誰でも理解できるだろう。

「安物で申し訳ないとは思いますが、込めた思いは決して紛い物ではありません。私が作られた人間で、貴女がそうではない人間だということも承知しています。それを踏まえて、の想いなんです」

 エリーは複雑な思いに心をちくちくと刺された。
 自分は人間で、そしてファートはMAID。確かにそれは大きな一つの違いではあったが、彼女自身そのことについてはそれほど重要視してはいない。しばらく前の夕刻に見たあの景色に同じように感動を覚えるのなら、それで問題は無い。愛に不可欠なのは容姿でも言葉でもなく、同等の価値観だとエリーは思っていた。

 彼女がそれよりも気になっていたのは、ファートの存在そのものだったのだ。
 ファートをGの死骸の中から引き上げたとき、確かにその周りには多数のMAIDの死骸――死骸と言うのはおこがましいかもしれないが――が転がっていた。そのほとんどはファートと同程度の傷を負っていたのだが、しかし何故ファートだけはその中で生きていたのだろうか。MAIDとはいえ、猛烈な瘴気に長時間晒されて平気なはずが無い。もしかすると彼は――

「エリー?」

 私は震える声で彼女の名を呼んだ。
 私の選択は間違っていたのだろうか、いやそんなはずはない。突然だったかもしれないが、いかにさっぱりした性格であるとはいえ何の好意も持たない相手と女性が同じ家で寝泊りすることがあるだろうか。
 彼女自身も僕に少なからず好意は持っているはずだ。一つの賭けではあったけど、僕はそれを全力で打ってみたのだ。

「ファート――」

 エリーは複雑な思いに心をちくちくと刺された。
 何かを疑いながらも、それでも彼に惹かれていないわけではない。想いに嘘を付くことは、ときに誰に対して嘘を付くよりも辛いことがある。己を騙すことなど結局は出来ないからだ。

 言葉に出来なかった答えは、結局口付けとして彼へ返した。



僕の  心臓が


輝いていた。


目には 見えないけど


確かに
 

光っ   たんだ。



「たいしたこと、なかったかな」

 隣でそう微笑んだ彼女の言葉に、俺は脳天をぶん殴られたような衝撃を受けた。いや、確かにそんなに自信があるわけじゃないが、いきなり面と向かって言うことか、それって。言うにしても、もう少しオブラートに包むべきじゃないのか?

「あ、違う違う! ごめん、そういう意味じゃなくて!」

 ファートの驚愕の表情に、エリーは慌てて顔を赤くしながら否定した。

「そうじゃなくて、何て言うのかな。禁断の恋かと思ってたんだけど、でも意外と普通に、何も変わらず愛し合ったなぁって。それがとても安心して、嬉しくてさ」

 しばし思考停止していた私だったが、ようやく彼女の言うことを理解することが出来た。
 つまり僕はこれからも今も変わらずエリーを愛してもいいってことだ。当たり前の恋人のように、当たり前の女性として、特別なことなんて何も無く。僕がいてエリーがいて、その間には愛があって、それをこれからも育ててもいいってことだ。

 エリーとて未来に不安を感じていないわけではなかった。しかし不安を前にぶら下げて生きて何の益になるだろう。
 せめて今は笑っていたい。



なぁ、エリー


この幸せは続くんだよな?


俺は君を愛し続けていいんだよな?


なぁ、エリー


俺はいつまでも君を愛して――



「ファー……ト…………逃げ………………………て…………」

 何だよ畜生、何が起こったんだ。どうしてエリーが刺されてるんだ、なぁどうしてなんだよ。なんでエリーが血反吐を吐きながら俺の名を呼んでんだよ。ここはどこだ、平和な田舎街じゃないのか? 誰か教えてくれよ。

 口々に叫んでいる「魔女」とはどういうことだ? しかも農具で突き刺しているのは、いつも小麦粉を分けてくれる隣人のグライスさんではないのか? いや、それだけではない。一握りの軍人こそいるものの、この私たち二人を追い詰め、殴り、そしてエリーを串刺しにした集団のほとんど全ては昨日までは笑顔であいさつを交わしていた街の住民たちではないか。

 怖い、怖い。でも血を吐くエリーの姿が何よりも僕にとって怖い。
 何が起こっているのか分からない。脳髄に寄生するGの話を思い出した。みんなはそれに寄生されてしまったの? エリー、ああエリー。僕らはどうすればいい?

「この薄汚いGめ!」

 集団を統率していた軍人の一人が憎々しげに叫び、手に持った拳銃をファートの太ももに向かって撃ち放った。MAIDとはいえ身体の全てに常にコアエネルギーを充填しているわけではない、当然ながら鉛弾は彼の太ももの筋肉を回転と共にねじ切って貫通する。
 膝から崩れ落ちる彼の足元にパッと鮮血が――待て、ちょっと待て、何故俺の血が赤くない。何故黒い? 僕の血液型は何だっけ? 私の血が――

「見ろ、あの忌まわしい体液を! あれこそが、奴がGである証! 奴は元MAIDであると言って油断させながら、善良な人間に近付き、俺たちを皆殺しにしようとしていたのだ!」

 G? G?

 馬鹿じゃねぇのか、この軍服は。俺がGであるわけがないだろ、俺は元MAIDのツヴァイ・ドラッヘだ。いくら消耗品だからって、軍部のリストには載っているはずだろ。間違いなく、私の名としてオ・ブライアンが明記されているはずだ。僕はGなんかじゃない、医療用MAIDのファート・ベルゼットだ。どうして分かってくれないんだ。

「フン、でたらめの名前を適当に軍部に送ってきたのが災いだったな。思いのほか人間に上手く化けられたから調子に乗ったか?
 だがな、お前が送ってきた名前の三人はすでに死亡しているんだよ! 誇り高くも貴様らGに最期まで抵抗して果て、その遺骸は今連邦研究所に安置済みだ!」

 馬鹿な。
 馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な。

 じゃあ俺は誰だ。今感じているこの思いは僕のものなの? 私の存在は? 僕はどこから来たの? 俺はあのとき確かに銃でGを最期に撃ったはずだろ。そして腹に傷を負った。間違いないはずだ。
 いや待て本当にそうだったか? 最期に持っていた武器は剣ではなかっただろうか。医療用MAIDとしては珍しく、私の武器は楼蘭刀という剛性に優れた刀。だからこそ弾切れも無く、あの地で最期まで闘い続けることが出来ていたのだ。
 そうだ。その通りだったっけ? 僕は武器なんか持ったことないよ。戦場はあのときが初めてだったし。違うかな。それとも三回目? いや、俺はもう十数回は戦場に立っていたはず。
 そもそも今話しているのは誰だ。
 あの日見た夕陽の傾斜角度が思い出せない。
 違う、そういうことじゃないんだ。問題は時間だ、時間なんだ。
 時間が分かれば季節と踏まえて光の角度がどこから来たのか分かる。
 それと場所だ、場所はエリーの家が一番落ち着く。
 あとは三角フラスコがいる。
 砂を集めなくては。
 心臓を守るためのプリズム効果も期待したい。
 でもずっと見ていてはダメだ、ずっと見ていると次元がずれる可能性がある。
 見えない壁は競っている。
 頭が痛い。
 あのときもそうだった。
 傷は胸なのに頭が痛い。コアだ。コアだ。
 コアは胸にあるのに、頭が痛い。プリズムと窒素の効果が薄い。
 どうしていつもそこが基点なんだ。
 畜生、私クソッ垂れ、私は誰だって言ってるのに、私は、私は、私は、


 ごぼっと吐き出されたエリーの血が地面に落ちる音で、ファートは我に返った。そして誰でもないもう一人の――もう一匹の記憶が蘇る。
 三人のMAIDを相手に戦い、死ぬ間際に三体にそれぞれ噛み付いた感触。口の中に残ったのは、ひび割れた三つの光る欠片。その内側からほとばしるエネルギーは、己の傷を癒すのに十分足りる。

 ――いける。

 無理矢理に筋肉で固め、隙間は液状化した瘴気で埋めて起動させる。エネルギーが過剰すぎて爆発するかもしれないが、どうせ放っておいても死ぬのだ、やれることだけやってみる価値はある。
 果たして意識はどうなるのだろう。自分の意識は保てるのか? まぁどうでもいい。もう眠たい――あとはどうにでもなるがいいだろう。


「俺ガ……俺ハGナノカ」

「ち……違う……わ…………貴方は、ファー……トでしょ? 元……MAI……D……の、ファ――」

 エリーの言葉は続かなかった。
 軍人の一人が、それを言い終わる前に軍刀を深々と彼女の腹部に突き刺したのだ。世界を切り裂くようなぞっとする叫び声と共に、エリーは痛みに耐えかねて地面をのた打ち回るが、その行為がさらに裂傷を助長し痛みは加速度的に増していく。

 男が、もはや誰でもない男が駆け寄ろうとするも、またしても脚を撃ち抜かれ、エリーの吐き出した血溜まりに飛び込むように地面に転がった。

「諸君! この醜い女は、以前Gを研究していたこともある医師くずれだ。そしてこの薄汚い男の正体にも気付いていた、だからこそ我々が来ると知ったとき、闇夜に紛れて逃げようとしていたのだ。何という悪の権化であろうか!」

「えりー、君ハ俺ガGダト――」

「かはっ……はぁ…………か、れ…………は…………Gなん……か、……じゃな…………夕……陽…………同、じ…………にん、……げ…………ん」

 息も絶え絶えにエリーは言葉を紡いだ。
 分かっていた。確かに分かっていた。人間ではなく、そしてMAIDでもないであろうと。それでも、彼女は男のことを信じていたかった。彼は夕陽の美しさが分かるのだ。
 血も涙も無いGであれば一日の終わりとしか認識しないただの自然現象を、彼は美しいと感じることが出来たのだ。それこそが、彼が人間よりも人間である証拠なのだ。

「しかも見ろ、この腹を! この魔女は人間とGの混血種まで作ろうとしているのだぞ! 諸君、我々はこれをどうするべきであろうか!」

 額に血管を浮かばせて熱弁を振るう軍人の目はもはや正気ではなかった。そして昨日までは笑顔の隣人だった集団の目も全て狂っていた。
 いつ終わるとも知れないGとの戦争は、少しずつだが確かに普通の人々の心を蝕むストレスとなっていたのだ。そしてそれは集団となればさらに密度を増し、そこへ「自分たちの中にGが紛れ込んでいた」という最大級の不安要素という起爆剤を持ったときに爆発する。

 もはや行動に制限をかけるブレーキなどはなく、究極の興奮状態に陥った群衆は今ならどんな残虐行為すらもやってのけるだろう。否、それはすでに行なわれようとしていた。

「殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!」

 群衆の声に酔うかのように、軍人は腹部に突き刺した軍刀を縦に切り裂いた。ぎゃあああああという潰れたような叫び声はエリーではなく、すでに事切れた彼女が最期まで想いを貫いた男の方である。もはや彼も正気を保っていることが難しくなってきたのだろう。

 それを見てニヤリと笑った軍人は、エリーの引き裂かれた腹部めがけて軍靴を――


「止ァァメロォォォォォォォオオオオオオオオオオ」


 ――何かが潰れる音が響いた。



えりー


愛スル、えりー


世界ハ 美シイ  ノニ 


何故


俺タチ、 ニハ


祝福ガ無イノダロウ







えりー


愛スル、えりー


世界ガ 俺タチヲ  許サナイノナ、ラ


俺ガ


モウ一度


世界ヲ 作ル   ヨ



 びちゃり、という音が辺りに響き、割れんばかりの歓声に包まれていたはずの群集がぴたりと声を出すのをやめた。彼らの視点はただ一つ、今まさにその音と共にぼろりと眼孔から転がり落ちて地面で潰れた軍人の眼球に集中していたのだ。
 もちろん軍人自身も相当意外だったようで、唖然とした表情を浮かべながらもう片方の目でその潰れた眼球を凝視、しようとしたところでもう片方の眼球も地面に落ちた。

 そしてそれを皮切りに、目、鼻、口、耳、毛穴、肛門、性器、とにかくありとあらゆる穴からぼたぼたと血が溢れ出した。本人はそれでも意識はあるのだろう、ひぃぃと金切り声を上げて出血を防ごうとするも、その勢いは止まらない。まるで空気が抜けていくように、皮膚がたるみながら体液が流出していく。
 結局、ものの一分も経たないうちに、エリーの亡骸の横にぐちゃぐちゃに潰れた肉団子のようなものが出来上がった。

 そのとき、男は立ち上がった。脚を撃ち抜かれているがゆえに、ゆっくりと、まるで動く死体のように。
 そしてそれに伴い、先ほどまで群衆の最前列に陣取って狂喜していた幾人かが有り得ない量の血を口から吐き出し、彼と入れ替わるように崩れ落ちる。

 ここに来て、群集は異変にようやく気付いた。何かがおかしい、今この場所で現実では起こり得ないと思っていた何か危険なことが起きている、と。
 病的な恐れは静寂な水面に小石を投げ落としたときのように瞬く間に伝播し、ざわついた群集は男を中心として一斉にそこから離れるように駆け出したが、そのほとんどはそれすら叶わなかった。数歩走り始めた時点で足は崩れ、己が吐いた血の中へと飛び込んでいく。
 上空から見ればそれは点を中心として鮮血の花が徐々に花弁を広げるようでもあり、さぞや壮観であったに違いない。


 最終的にその花弁の数は街の総人口4127人に等しくなるまで広がり、やがてたった一人――黒いガスマスクと白衣を羽織った男がその街から姿を消したときに花は枯れた。







「おい。もうそろそろ起きな、ヘーコック」

 ヴァカヂは肩をぐるぐると回して準備運動をしながらガスマスクの男、ヘーコックに呼びかけた。
 フライの羽音に負けない彼女の怒鳴り声が耳を貫通していったヘーコックは、特に何かリアクションするわけでもなくふらりと立ち上がる。

 今彼ら――ヴァカヂ、ウィルロック、そしてヘーコックは上空およそ三百メートルのところを、ゴーガ率いるフライの飛行部隊に載せられて高速移動中だった。MAIDが常駐している基地があるとの情報を仕入れたカ・ガノが、攻撃力において最強を誇る三人でそれを潰してくるよう指示を出したのだ。

「OK 目が覚めたか、ヘーコック?
 カ・ガノからの指示はいつもどおりだ。常駐しているMAIDはヴァカヂのパンチでDead End! 通常兵器は俺のSongでParty Timeだ。で、哀れな人間共はヘーコックの獲物だな。
 Ha! 喜べよ、ヘーコック。今回の基地は居住区付だ。けっこうな数がKillできるぜ? Ya!」

 ウィルロックの空恐ろしい言葉を聞き、ヘーコックの表情がマスクの向こうで僅かに高ぶったような様子を見せた。無言で踵を返し、後ろに準備してあったガスボンベの元に座り込んで何やら微調整を始める。
 その様子を見たヴァカヂは、マイクテストを始めたウィルロックの肩をちょいちょいと突付いた。そしてヘーコックに聞こえないように、わりと静かな声で話しかける。

「なぁ、ウィルロック。私が言うのも何だが、ヘーコックはやけに殺す人数に拘るよな? 何か理由でもあるのか?」

「あーあー Mike Test Mike Tes、あ、Ah? 何だ、知らないのかヴァカヂ。
 ヘーコックはな、俺たちと組む前にWifeを人間共に殺されてるんだ。まぁWifeも人間だったらしいが、Ha! それならそれでさらに悲劇だな! Fuck!」

「つまりは、復讐……か」

「No,No! そうじゃないらしい」

 は?とヴァカヂが不思議そうな顔をして首をかしげる。
 奥さんを殺され、その後自分はその殺した人間たちを大量に殺している。これのどこが復讐では無いと言えるのだろうか。

「ヘーコックが言うにはな、Wifeは死んでないそうだ。何でも、肉体と切り離されたSoulになってShangri-Laってとこにいるらしい。
 ただそのShangri-Laってのは、建物や食物はあるんだが人間がいないらしいんだ。でもそれじゃそのWifeが可哀想だろ? だからそのShangri-Laとこの世界とのGateを唯一開けるGate Keeperである自らが命を刈り取り、そのSoulをShangri-Laに送ってやらなければならないそうだ。つまり、この世界をそっくりそのままShangri-Laに再現するのがヘーコックのWorkってわけだ、OK?」

「あ、あ? いや、その……私は力じゃ絶対負けんが、頭はトリーノに頼ってるもんでからっきしなんだ。え〜と、言ってることがよく分からないんだが、どういうことだ?」

「Ya−Ha! だろうな、ヴァカヂ! なんせ、俺自身も全く分からんからな! Ha!」

「何だよ、それは」

「つまりだ、ヘーコックはNice Guyだが、Crazyなのさ。俺たちもたいがいだが、あいつはそういうLevelじゃない、Crazy Go Goだ。思考回路そのものが俺たちとは違うのさ」

「なるほど、ね」

「まぁ逆に言えば、ヘーコックはそこまでCrazyにならなきゃ自我が保てないほど、何かDangerなモノを見たんだろう。俺もそこまでは知らないけど、な」

 ちょうどそこまでウィルロックが言い終えたとき、歩み寄る足音と共にヘーコックが戻ってきた。
 消火器ほどの大きさのボンベを、背中に三本、両腕に一本ずつ、計五本の殺戮兵器を抱えるその姿は、そう言われてみるとどこか哀愁を漂わせているようにも見える、とヴァカヂは感じた。どちらにしてもその表情はマスクで覆われているために判然は出来ないが。

「随分と重武装じゃないか、ヘーコック。それ、何人分?」

「成人男子ナラ四万八千人、成人女性ナラ五万三千人。老齢者、子供ナラ最大デソノ1.5倍マデ数値ヲ上ゲラレル」

「ほぅ じゃあ、今日はShangri-Laが随分と賑やかになりそうだな?」

 思いのほか柔らかく述べられたヴァカヂの言葉は彼にとって大層嬉しいものであったらしく、ヘーコックは珍しくも肩を震わせて「フ、フフ」と小さく笑い声を上げた。

「OK、気分も盛り上がってきたな! 強襲制圧部隊、チーム・トライデント! 出撃だ! Ya−Ha!」

 ウィルロックの掛け声と共に、三人はフライの背中から闇夜へと飛び降りた。




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